舘山寺町は、面積2.25㎢、1,095世帯・2,527人(令和元年8月1日現在・浜松市HPより)ですが、自治会への登録810世帯程です。
舘山寺町の地名の変遷などを、調べてみました。
「古代は堀江・内山を佐田と号す」と三ケ日の金剛寺過去帳にあります。
「佐田村」と言ってたのですね。
堀江氏が館を構えたのは応永年間(1394-1429)のこととされています。初代城主は堀江光真でした。
文亀年間(1501-04)、五代目当主堀江為清は今川氏親と戦い、堀江氏は降参し佐田城は落城したそうです。その頃のことでしょう「桜塚」や「稚児岩」が伝説となっています。
その後、領民に慕われていた佐田城主堀江氏の遺徳を後世に伝えようと、佐田の地名を堀江に改めたそうです。
堀江氏の後、堀江を統治していたのは、大沢氏です。永禄12年(1569)家康の遠州侵攻にあって和睦し、家康から旧領を安堵されました。領地は、庄内一円外、高塚や都築も支配下にありました。
堀江城主大沢氏は徳川幕府の高家として仕え、宿蘆寺に大沢家11代にわたる墓所があります。

宿蘆寺参道は「おんな城主 直虎」で、龍潭寺の参道としてロケがなされました。
明治2年6月の版籍奉還にて堀江藩が、同年7月の廃藩置県の実施によって堀江県となりましたが、「万石事件」により同年8月に浜松県に併合されました。
堀江陣屋は、明治10年に競売になり、大手門は湖西市新所の法泉寺の山門となり、現存しています。

また、御殿が新所小学校の校舎となりましたが、小学校の統合取壊しの際に、御殿の鬼瓦を買い受けて、現在ホテル九重の玄関に鎮座しています。
敷知(ふち)郡堀江村は、1889年(明治22年)町村制の施行により、敷知郡北庄内村堀江。
1896年(明治29年)郡制の施行により浜名郡北庄内村堀江。
1955年(昭和30年)北庄内村・南庄内村・村櫛村が合併し庄内村が発足、浜名郡庄内村堀江。
1965年(昭和40年)庄内村が浜松市に編入し、浜松市堀江。数か月後、浜松市舘山寺町と。
2007年(平成19年)浜松市が政令指定都市に移行し、浜松市西区館山寺町となりました。
投稿者 佐藤和真