武田信玄が、三方ヶ原の戦いの後、堀江城を攻撃した

三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に遠江国敷知郡の三方ヶ原で武田信玄と徳川家康間で行われた戦いを言う。武田軍を徳川軍が迎え撃ったが敗退した。

二俣城攻略から3日後の12月22日に遠州平野内を西進した。これは堀江城を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りしているかにみえた。これは、浜名湖の海運をまとめていた大澤氏の居城を狙い堀江城を手に入れ、家康の物資の補給路を断つ狙いがあった。そこで家康は、堀江城を手放せないから、三方ヶ原で戦いを始めたのでは?その後は、皆さんご存知の通りの結果となってしまった。

その後、武田軍は12月23日から堀江城を攻撃している。

「武田氏研究・第65号」遠州堀江城と武田信玄(平山優 著)によると

武田信玄は「堂地」に陣取り
武田信豊は、「地蔵」
山県三郎兵衛は、「天王」
甘利信康は、「稲荷」
小畠信真は、「平田」 
 に在陣したという。

その後、27日に大吹雪となり刑部に撤退した。

武田軍の陣地を置いた場所が以下の地図の所である。
地図



投稿者 佐藤和真


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武田信玄が、三方ヶ原の戦いの後、堀江城を攻撃した
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